ふるたち

ふるたちです。

夫婦別姓と「野比しずか」

はてなブックマークを見ていたら面白いことが起きていた。

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togetter.com

上に載せた一つ目のツイッターでは、吉峯耕平弁護士が選択的夫婦別姓制度への懸念を表明している。かつて女性の社会進出が広がったことで専業主婦が否定された(専業主婦を好意的に扱うことが禁忌化した)ことを引き合いに、夫婦別姓が広がれば夫婦同性が否定される(夫婦同性を好意的に扱うことが禁忌化される)のではないだろうかというわけだ。これに対して「実際に起きていないリスク」であるとした批判的なブックマークコメントが散見される。

一方で、ふたつ目のまとめでは、ドラえもんの新しい映画『STAND BY ME  ドラえもん2』の宣伝広告で主人公の野比のび太と結婚したヒロインの源しずかが「野比しずか」を名乗っていることに対して「古い価値観だ」「キツい」といったコメントが寄せられている。

吉峯弁護士のツイート時刻が11月20日の午前10時頃で、「野比しずか」のまとめで一番最初に出てくる批判的なツイートは翌21日の午後5時半だったので、二日とかからず吉峯弁護士の懸念が現実化したことになる。吉峯弁護士の懸念を「実際に起きていないリスク」と評した人たちは滑稽な道化を演じてしまい、理想を高く持ちすぎると現実が見えなくなるという好例になってしまったようだ。

一般に安易な未来予測はしない方がいいし、自分の信念に都合のいい予測ほど気をつけるべきだろう。今回はフィクション上の話だが、現実に選択的夫婦別姓制度が導入されたときに新婚夫婦たちがどういう選択をするかはわからないし、その選択に対して社会がどのように反応するかもわからない。夫婦同姓を選んだカップルに対して「前時代的だ」「ダサい」といった批判が寄せられるかもしれない(むしろ、今回の件をみるに、その可能性は結構高そうだ)。あるいは、選択的夫婦別姓制度が導入されたにも関わらず、ほとんどのカップルが従来通り夫婦同姓を選んでしまう、という未来もあるかもしれない(夫婦別姓を選ぶことが「意識の高い人」というレッテルを貼られて忌避される、とか)。

日本社会は同調圧力が強いので、その圧力がどう働くかによって社会のありようは大きく変わる。だいたい、現行の夫婦同姓制度がまるで男女差別的かのように語られることがあるが、実際には現行法は男女平等だ。夫と妻のどちらかの姓に統一しろと言っているだけだから。そうなのだが、現実には大多数のカップルが夫の姓を選んでしまっていて、それが問題なわけだ。つまり、選択の自由があっても行使されないことが問題なのであって、選択的夫婦別姓制度でも同じことが起きる可能性は排除できない。これは同調圧力の問題で、使い古された言葉を使えば「空気」の問題だ。そして、これは日本社会の宿痾なだけに解決は難しい。

ところで、私は「野比しずか」に対して「古い価値観だ」とか「キツい」などの反応を示した人が間違っているとは思わない。古い価値観なのは間違い無いし(ただ、もちろん、古いから悪いわけでもない)、夫婦別姓が進歩だと信じるならば受け入れがたいのも仕方がないと思う。私は夫婦別姓が必ずしも進歩だとは信じていないので拒否反応を示すほどではないが、「未来」の描き方としては陳腐だな、と思った。

原作のスタート時点から考えれば、現在は野比のび太源しずかが結婚していたであろう年をとっくに超えているはずだ。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』なら2015年にはすでに車が空をビュンビュン飛んでいるはずなのに、というような、「未来」を描く古典SFで起こりがちな錯誤が発生するのだが、漫画やアニメの中の二人はいつまでも小学生のままなので、私たちは彼らを小学生と認識している。だから、その二人の結婚を描くストーリーは未来の話なのだ。

フィクションで未来を描くとき、そこには作家の社会や人類に対する視線が反映される(はずだ)。バラ色の未来が描かれるなら、そこには現在の社会が抱える問題が顕になる(なぜなら、それを克服したからこそ良い未来なわけだ)し、ディストピア的な未来が描かれるなら、そこには人類には幸福な社会など作れないのだという皮肉がこめられている。

この映画の制作者は「野比しずか」にどちらの意味をこめているだろう。前者なのだとすると夫婦同姓制度を維持することが良いことだと言っているわけで、それに進歩的な人々が反発するのは無理もない。後者であれば、これはなかなか強烈な皮肉(つまり、どうせ日本では夫婦別姓など実現しないと言っているわけ)であって、そうだとすれば私もこの映画を観てみたいと思う(たとえば、野比家の人々に押し切られて改姓してしまった源しずかが、そのことで苦悩したり後悔したりする姿が描かれていれば、それは令和2年に公開される映画として最高の出来になると思う)が、多分その可能性は低い。

その他に考えられるのは「制作者が何も考えていない」というパターンで、未来に対する視座も現在に対する批評もなく、ただ「(旧来的な意味での)結婚は素晴らしいよね、感動するよね」という通俗的な価値観のままに作っている可能性もあって、私はこの可能性が結構高いと思っている。だから「陳腐」だと感じた。

もっと酷いパターンも考えることができて、それはこの映画に作家性など存在せず、「こういう通俗的な価値観を示せば売れるから」という商業主義のみで作られているという可能性である。そうだとすれば、私を含めて「野比しずか」に釣られた人々は馬鹿を見たことになるわけだ。この可能性も、それなりにあると思う。だが、名作を元にしたこの映画が、そこまで邪悪な作品ではないと信じたい。